「初めて」という言葉って怖くない???
初めての物を口にするって意外に怖かったりしますよね。その中で1番最初にキノコ類を食べた人って凄かったりしませんか?
「キノコ」というと、皆が思い描くようなあのキノコです。
人間がまだキノコを誰も食べたことがなくて、初めて発見されたものだとします。
そして、それを食べようと思う発想がする人は勇気のいることだと思います。
あの見た目であれば、食べようなんて思わないです。
今はキノコが食べることのできる物であると人が認識しているため自然と食べていますが、当時それが初めてであれば尚更です。
もしかすれば「美味しいかもしれない」のと「毒のあるものかもしれない」と思うはずです。
分類学では、ある程度「これなら食べることが出来るであろう」と判断は出来ると思いますが、それでも嫌ですよね。
いくら調べてそれが安全であると言われても、「いやもしかすれば毒があって、自分は死ぬかもしれない」と思うはずでしょう。
自分がそれを検証する立場なら、必ず拒むでしょう。(ビビりなので)
なので、人類で最初にキノコを食べ、世界中へキノコは食べることの出来る物であると広めた人は、本当に勇気のある人ですよね。
尊敬します。
「移動」の技術ってさほど進化してなくね!!!!
いつも夜にこの日記を付けているのだが、(遅れましたが)ブラックホールの撮影に成功したというニュースが流れたそうですね。
「えっ?!今まで撮影出来てなかったんだ!!!?」
と初めて知った。
昔からブラックホール=暗黒空間というイメージを思い描いていた。
漫画や小説などでもそのイメージで描かれていたというのもあって、既に発見されて撮影にも成功していると勝手に認識していた。刷り込みって怖いなと感じた。
しかし、人類の技術は常に日進月歩で発展していくところを見ると、ヒトという動物は頭の良い動物であると思う。
ただ「なんかこれイマイチ進化してなくね?」と思うもの、ある気がする。
それは 「 移動 」
とんでもない数の人間と、とんでもない時間をかけて作成した膨大なデジタルデータは一瞬で海外に送ることができるのに、人を東京に送る(新宮から東京まで)には約5時間もかかります。
鬼の大富豪がどれだけお金を積んでも、快適に日本からアメリカへ移動するには10時間以上かかります。ただ「速く動かす」というあまりにもシンプルな課題ゆえ、このジャンルにおける人間の進歩はもうカンスト間近なのかもしれない。
しかし、横移動はまだ良いと思うが、縦移動の進化はさほどではないだろうか。
「階段」は自分の足で、位置エネルギーで稼いでいる。
これは原始時代から変化していないと思う。
「階段」を進化させた「エレベーター」も、一見すごい機械に見えるが、仕組みは機械を用いて、人が入っている箱を紐で引っ張っている。これは小学生でも簡単に思い付きそうではないだろうか。階段は足が疲れるし、エレベーターは(言えば)知らない人と2人になった時気まずいため、早急に縦移動の進歩を求めます。
例えで言うと、ドラクエとかにある動く床とか、ガンダムとかにあるシューって動く手すりみたいな研究を進めて欲しいと常に切望しているよ。いや本当に、、、
『けものフレンズ1』が好きだった人にとって、何が「地雷」なのか??
今回の記事は久々にアニメ・漫画の記事を書くことにしよう(笑)
今年の冬アニメは何かと話題にはなりましたね(笑)
その冬アニメの中でも今、ナニかと話題な「けものフレンズ」」について話をしていこうかと思います。
アニオタなら知っているであろう「けものフレンズ」。。
1期の完成度の高さから、「たつき監督、神!!」「最高傑作!」と言われるぐらい評判の高かったけものフレンズ1期でしたが、1期終了後、功労者であるたつき監督と製作会社の「ヤオヨロズ」がまさかの降板という采配に業界がざわつきました。。
これは原作者(あの有名?なケ〇ロ軍曹を生み出した人)と局のプロデューサーによる裏工作があったに違いないと言われており、たつき監督が創り上げた「けものフレンズ」を奪い取り、更にたつき監督を除け者にしたこの扱いに批判が殺到しました。
その中で今年の冬アニメ枠として「けものフレンズ2」が放送されました。
しかし、「けものフレンズ1」の脚本や演出といった役割もたつき監督が担っていたこともあり、この「けものフレンズ2」は毎話放送されるごとに脚本・演出の拙さが出ており、もちろん評価にも直結し右肩下がりになりました。
そして、挙句の果てには、「けものフレンズ2」で新しい伏線を広げ過ぎてしまった結果、最終話でそれを拾いきれずにそのまま放送終了になりました。
たつき監督が創り上げた「けものフレンズ1」は、新しく抜擢された監督、そしてそれに関わったプロデューサーによって創られた「けものフレンズ2」によって見事に崩壊しました。
ニコニコ生放送後、評価は平成で放送されたアニメの中で最も最低な評価になり、「平成最後で最大のクソアニメ」と化しました。。
大人である僕が子供向け?に創られた「けものフレンズ」に対して大人げない意見を言うのはお門違いであると思っているのだが、「けものフレンズ1」の出来の良さに惹かれていたこともあり、今回のこの「けものフレンズ2」は非常に残念であるとしか言えない。
「けものフレンズ1」に僕が惹かれた理由をちょっと今回は長くなると思うが、述べていこうと思う。。
『けものフレンズ1』は「子ども向け」……厳密に言えば、「子ども向けであってもおかしくない」、あるいは「子どもでも安心して観られる」作品である。
だが、そんなことは何一つ関係ないのだ。
大事なのは、
「圧倒的繊細さで、骨太のロードムービーと、不穏さと不穏さを覆すカタルシスを詰め込んできた」……
その上でさらに。
「最初から最後まで、圧倒的包容力と、世界の優しさを失わなかった( = 静的に紐付けられたテーマに対しての態度が徹底的に一貫していた)」
という、作品の特異性が、あまりにも特筆すべきものであることだ。
その特筆性は、否応なく僕らの……オタクの、あるいはアニメファンの、あるいは疲れた社会人の心をガッツリと掴んだ。
逆は、比較的多いのだ。
「最初は平穏でゆるふわな世界が、悲惨な崩壊を遂げる」。
『魔法少女まどか☆マギカ』もそうだし、他に有名な作品だと『ひぐらしのなく頃に』あたりもそうだろう。
『けものフレンズ』の描いた世界は僕が知る限り…類型が、まったくない。
……アンパンマンに近い?
そうだ、意外とアンパンマンは『けものフレンズ1』に近いかもしれないぞ。
いや、アンパンマンはそもそもロードムービーじゃないし、あんな骨太の不穏さはない、それにノスタルジーも別にない。(むしろそんなアンパンマンは見る気になれない)
語っていなかったが、けものフレンズを語るときに「ノスタルジー」は外せない要素だ。不穏さの裏側にある「滅びたもの」の描写が見事だった。それは作品自体に「子供向けコンテンツ」の残り香があることと見事に呼応していた……
そろそろこの記事の本題である「『けものフレンズ1』が好きだった人にとっての『地雷』」について語っていこう。
とある漫画家の人がTwitterで言っていたのだが、
「けものフレンズ2。一部の人達が親の仇のごとく嫌ってる9話だけを見てみたんだけど、何の他愛もない子供向けアニメという印象。いい大人がこのアニメの機微なクオリティを云々しているのは滑稽でしかないと思う。君達、もうけもフレは卒業だ。ガンダムを見よう!」
もうここまで書けば、「一体何が良くないか」羅列する必要はないと思う。。
が、強いて言うならば。
「子供向けだから機微を語るべきではない」
は、あらゆる意味でマズイ言葉だと僕は思う。
そこらへんの機微をびっくりするほど煮詰めていたのが『けものフレンズ1』という作品だったのだ。
ここまで書いておいた何なのだが、『けものフレンズ2』という作品について、僕はあまり触れたくない。
だが、僕の知る範囲で……実際に観た範囲で語るなら。
脚本がエンターテイメントとして基準に達していなかった。
それに何より、端的に、真摯じゃなかった。
それだけだ。
いい大人がこのアニメの機微なクオリティを云々しているのは滑稽でしかないと思う
に関しては言ってはいけない事だと思う。
・ファンはその作品が好きだから、怒る。
・ファンはその作品が好きだから、執着する。
・ファンはその作品を愛しているから、怒る。
いくら幼稚でも稚拙でも、ロクでもないものでも、好きだから、語りたくなるんです。
名作と言われる作品は、
「答えてくれるんです。」「応えてくれるんです。」
……それくらいの作品「だった」んです、『けものフレンズ1』という作品は。
それを「僕らが見るべきものじゃない」は、その時点で、全ての可能性を閉ざすんです。※更に細かいことを言うと、例えば『しましまとらのしまじろう』みたいなもう誰がどう観ても「子供向け」の作品もあるにはある。だけど「君らは対象年齢じゃない」という。(まぁそれに対しても真剣に批評する大人は存在するわけだけど、それは別にして……)
一方、『けものフレンズ1』『2』は、明らかにそういった文脈の作品じゃないっていうこと自体も無視できることではないのですが、ここで主張すると本筋から外れる可能性が高いのでここでは言いません。
もちろん、「愛」ゆえに全ての怒りや暴言が肯定されるとは言わない。
だけど「怒りを生むほどの愛がそこに存在する」と認識していれば、そんなことは絶対に言わないと思う。(上記で述べた漫画家もそうだし、Twitter上で感情をむき出しにして来たリプに返すけもフレ2監督やプロデューサーにも当てはまりますよ)
とにかく僕は今回の記事を通して言いたかったことは、
「ファンの応援あっての作品制作」
であると思う。
話が支離滅裂になっていることに間違いないと思うのですが、僕が言いたい事は以上です。少々僕も感情的になってブログを書いた部分もあるので、謝罪します。申し訳ありませんでした。
長文でしたがここまで読んでくださり、ありがとうございます。。
次回の記事もまた機会があればぜひ読んでください。。
ふと僕は疑問に思ったことがあります...
今回のブログはふと疑問に感じたことを書いています。。
特に僕がおかしくなったわけでないのでぜひ最後まで見て頂ければ幸いです。。
僕はずっと前からこの世界がおかしいと気づいていたんです。
考えてみてください。携帯っておかしくないですか。
なんですか電波って。何で遠くの人の声がリアルタイムで自分に届くんですか。
なんで写真が何万枚もこの小さな機械の中に入ってて自由に人にあげたり加工したりできるんですか。
生放送もおかしいでしょ。なんで映像とか文字とかその場にいない大勢の人の画面に配信されるんですか。
つまり、嘘なんです。
電波も嘘、携帯も嘘。車とかエアコンとか全部嘘なんです。
冷静に考えたら流石にそんなものは作れないと気づくはずなんです。
ちなみに僕は「赤外線受信って技術やばくね?」と疑い始めた時に気づきました。
なぜこのオーバーテクノロジーまみれの世界で何の違和感もなく今まで生きてこれたのか。
それは「上の存在」から嘘をつかれてるからです。
大人は子供に嘘をつきます。都合がいいからです。しかし子供は気づきません。大人の方が知恵があるからです。
そして世界は大人に嘘をつきます。きっと遊んでいるんです。僕たちで。
ゲームのような感覚で僕たちに技術を与えているんでしょう。
大人が子供を騙すかのように。ありもしない携帯やテレビを当たり前のように使ってなんの違和感も持たず生活している僕らを見て大爆笑している「1つ上の世界」があるんです。
これに気づいてしまった時は自分はこの世界からはじき出されるんだと覚悟しましたが今のところ異常はありません。
きっと僕が気づいている物たちは核心を突く物ではないのでしょう。
もっと身近にあって、もっとおかしな存在がきっとあるはずなんです。
それに気づいた時僕は、いや、人類は......
陸上の長距離走をやっている人は、やはり「Mっ気」の体質なの???
小学校・中学校・高校と約12年間陸上競技を続けてきた自分(今もまだ現役)ですが、よく友人から言われたこと・・・・・
「長距離走って何が楽しいの???」
それに対する自分の反応↓
「僕にも正直わかんない!!」
いや、ほんとにこれなんですよ。。
僕は陸上競技をやっていたと言っても、長距離走の選手でなく、短距離走の選手であったため、長距離の練習もあまりしたことないので詳しいことは言えないです。
でも冬場のトレーニングは基礎体力を向上させないといけないことから、短距離選手関係なく、長距離の練習をやらされたわけなんですが、これがまた吐きそうになるまで走らされました。
ゲロまではいかないんですが、ゲロとゲップの間ぐらいのとこまでいってましたね。(今後ゲロとゲップの間を「ゲロニカ」と呼ぶことにしよう(笑))
短距離は100mや200mなど走ればすぐに終わるんですが、長い距離(具体的に言うと、1500mや3000m、マラソンなど)は終わるまで時間が凄いかかるし、走っている際いったい何を考えて走ればいいのか分からなくなるんです。僕が冬場の長距離練習で何を考えて走っていたかというと「家帰ったら晩御飯なんだろ?」とか「あーカラオケ行きてぇ」とかそんなこと考えてました。長時間走り過ぎて「友人から教えてもらったあの〇〇っていうAV女優さんの動画を見てみるか」とか最低な妄想をしてたりしては走ってました。
スポーツで野球やサッカーなど団体競技に所属している人が正直羨ましかったりします。だってみんなで一緒に練習して、その辛い練習を一緒に共有することが出来ますが、陸上競技は主に個人で競う競技でもあるため、あまりチームワークは重要視されていません。(テレビでよく見る箱根駅伝などは陸上競技ではありますが、陸上競技部とは別に駅伝部というのがあるので、駅伝部を除く陸上競技部を仮定してこの記事を書いてます)
でも勘違いしてほしくないのは、陸上競技に全くチームワークがないというわけではありません。もちろん花形の4継(4×100mリレー)やマイル(4×400mリレー)は団体種目であるため、チームワークは必須です。
でも、個人種目になると「自分との闘い」「他選手との競い合い」が出てくるため、同じ高校の部の選手であっても、いざ試合になると敵になるんです。(練習はそうでないかもしれませんが)
話はだいぶ逸れてしまいましたが、他の部活の生徒が「嫌だなぁ」と思ってる練習自体を競技としているわけだから、普通に考えれば「嫌なことを自らやってる人たち」に見えますよね。
「長い距離を走り終わった後の達成感がいいんだよ」って言うんならまだ分かるけど、それってやっぱり走ること自体が好きなわけじゃないんだって思ったりします。
そこで僕が考えたのは、あくまで個人的主観なのですが、M体質なのでないかと思います。やはりMっ気というかストイックさというか、そういうメンタルを持っている人たちじゃないと出来ない長距離走でないのかと僕は正直思っています。
僕に共感してくれる人、いないかな...(チラリ)
実家がなぜ物で散らかるか原因を考えたみた
「きれいな実家」を見たことがありません。
僕の実家が散らかっているというだけではなく、僕が見た限りあらゆる人間の「実家」は、なんだかゴミゴミしているのです。
ということで「実家散らかりがち現象」について真面目に考えてみました。
まず、実家というのは基本的に古いです。経年劣化します。
物の劣化を食い止めるのは実質神くらいしか出来ないと思うので、これはしょうがないことでしょう。
そして、実家というのは複数の人間が住むところです。
ものを散らかす人間と、綺麗好きな人間がちょうど1/2の確率で存在していると仮定した場合、5人が住んでいる家の住人全員が綺麗好きである確率は1/32です。この数値を見ると、散らかっている実家が多いことにも納得できますね。
最後に、親というものは子供のことが好きがちです。
子供のものをなぜか異常にとっておきがちです。僕は比較的思い出に浸るタイプではないので、中高のものはほとんど卒業と同時に捨ててしまうのですが、なぜか母親がそれを拾って大事にしまってありました。
そう考えると、単純に実家が散らかりがちなのは悪いことだと断定もできませんね。「実家の散らかりはママの愛だ」という名言を残して、今日のブログを締めさせていただきます。
自分の「死」について考えてみました
少々物騒な話をしますが、
首吊り自殺の死体はとても汚いんだそうですね。
本当かどうかはわかりませんが、体内のものが全部下から出てう〇こまみれとか、血が止まるから変色がすごいとか聞いたことがあります。
自殺する人の気持ちはよくわかりません。自殺をする人の自殺要因として、やはり精神的なことが関係するんです。仕事関係や人間関係に疲れたり、人生に落胆している人=自殺になるパターンが多いと思います。
でも僕が仮に死ぬとしたら、ダサい死に方は嫌ですね。
人間のあるべき「死」というのは、やはり自ら死ぬのでなくて、病気(一番良い死に方?というと不謹慎だと思いますが、やはり老衰が良いですね)で亡くなるのが自然だと思うんです。
なので首吊りとかは却下です。やめましょう。
逆に、死体が綺麗に残るのは凍死なんだそうです。
体温が下がって、体が全身的に体がゆっくりと腐敗していくので、どこか一部がめっちゃダメージ受けるっていうわけじゃないからですかね。
でも、凍死する人は死ぬ寸前に、体温調整中枢ってところが麻痺して「暑い」と勘違いして服を脱いでしまうことがあるんだそうです。
寒いところだと、きっとちん◯んも縮こまっていると思うので、死体になって見つけられたとき「ちん◯ん小さっ!!」って思われて恥ずかしいです。
なので、凍死も却下です。やめましょう。
他にも色々調べてみましたが、どれもこれも準備が大変だったり痛そうだったりで嫌ですね。
そうなりゃ、不死身になったほうがいいですね。
ちなみに僕はこのことをブログに書くため、少し調べ物をしたわけですが、その際にたくさんグロ画像を見てしまいました。勘弁してください。